──モチベーションを取り戻す
17日の夕方、修学旅行から帰ってきた健斗は、口数こそ多かったが、かなり疲れている様子だった。
さすがにその日の夜は勉強はできそうになく、夕飯を食べたら、お風呂に入って早めに寝るように促した。ただし寝る前に、
「明日は勉強頑張れよ」
とだけ健斗に伝え、午後9時頃には眠りについた。
翌朝は7時に起床し、8時から勉強をスタートさせた。しかし修学旅行の疲れが残っているのか、なかなかエンジンがかからない。私は健斗に、
「明日は本試験だぞ。やる気が出ないのか?」
と訊くと、
「修学旅行が楽しすぎて頭の中が真っ白になってる。もう少し待ってて」
という返事。
私は黙って、健斗がやる気になるのを待った。1時間は過ぎただろうか。健斗は私に言った。
「今日は『どこでも過去問』をできるだけ多くやる。夜寝る前までに3回繰り返す。絶対に合格したいから」
ようやくやる気に火が付いたようだ。
それからの健斗は「勉強の鬼」と化した。どこでも過去問(全3冊)を夕方までに2周、夜寝る前までにもう1周と、本当に3回転させてしまった。
どこでも過去問は全部で489問あるから、3回転させたということは1467問だ。これだけの問題を解けば勘も取り戻せるだろう。
私はそう信じて、健斗はこの日の勉強を終えた。
──本試験の当日
10月19日、日曜日。ついにこの日がやってきた。一年前と違って天気は快晴だ。試験会場は、昨年と同じ岡崎市にある人間環境大学。
本試験は午後1時に始まる。受験票に筆記用具、腕時計など、持ち物を確認してリュックに詰め、午前11時頃には家を出て会場へ向かった。
試験会場までは1時間ほどで着く。
12時ちょうどに会場に着くと、すでに受験生らが会場の外でテキストや過去問を開いて勉強していた。
健斗も持参してきた『一問一答777』を開いて少しだけ勉強した。
しばらくして校舎に入り、指定された教室の指定された席で待機した。
12時半になると私は、
「頑張ってな」
とだけ健斗に言い残し、教室をあとにした。
私自身は受験生ではないので、校舎のすぐ外にあるベンチに座って待つことにした。
午後1時に試験が始まると、教授のような初老の男性が私に、
「もう試験は始まってますよ」
と声をかけてきた。私は即座に、
「息子が受験に来ました。私は保護者です」
そう応えると、教授風の男性は
「中学生ですか?」
と訊いてきたので、私は
「いえ、小学6年生です。昨年2点足りなくて合格できなかったので、今年はリベンジです」
と伝えたら、少し驚いた表情をしていた。男性の近くには、この大学の学生らしき2人の女性もいて、この話を聞いた直後、2人とも口に手を当ててビックリした様子を見せていた。
その後、試験が終わる午後3時まで、私は文庫本を読みながら時間を潰すことにした。
──運命のいたずら
午後3時になった。私はすぐに健斗がいる教室へ向かった。本試験が終わってざわざわしている教室の外から、健斗に向かって
「どうだった?」
と口の形で合図した。健斗はすぐに、両手でばってんのポーズをとりながら首を横に振った。
「ダメだったのか、、」
私は魂を抜かれた亡者のように、その場に座り込んだ。
教室から出てきた健斗は、
「難しかった。ダメかも知れん」
そう告げて肩を落としていた。しかし周りの人たちを見ると、みんな意気消沈している様子。
「本当に難しかったみたいだね」
私は、頑張って本試験に挑んだ健斗をねぎらい、慰めの言葉をかけながら会場を後にした。
帰りの道中で改めて健斗に訊くと、特に宅建業法が難しかったようだ。いつものような手応えがなく、おまけに権利関係まで難しかったという。
これを聞いて、私は正直「不合格」を覚悟した。
──希望の光
家路につく途中、ショッピングセンターに立ち寄り、健斗と私はフードコートで軽食をとりながら休憩した。
しばらくすると、一部の予備校が正解番号をネットに公開し始める。
総合資格学院は、例によって、自分がマークした番号を携帯に打ち込んで送信すると、点数を教えてくれるサービスをしていた。
休憩している間に私は、健斗がマークした番号を総合資格のサイトに打ち込んで送信しておいた。
家に帰ったら見るつもりで、、
ところが、総合資格の返信メールは予想外に早く届いた。結果は、
「35点」
となっていた。
健斗にしては物足りない点数だ。しかし私は、少し希望をもった。
というのも、予備校の講師らが「今年は難易度が上がった」旨の総評をネットでしていたからである。
家に戻った後も、私はネットに釘付けになった。
複数の予備校の講師陣が、「今年は昨年並みかそれより難しい」と口を揃えたように言い始めたので、私はようやく胸をなでおろした。
昨年の合格基準点は33点である。ということは、
「35点は合格だ!」
まだ決定ではないが、私は健斗にそのことを伝え、
「よく頑張ったな」
と言って頭を撫でると、健斗はうっすらと涙を浮かべてうつむいた。
そして、
「うん」
と軽くうなずいた後、笑顔を見せた。
ちなみに、健斗の点数の内訳は次のとおり。
権利関係 8/14
法令上の制限 7/8
税・鑑定 2/3
宅建業法 14/20
免除科目 4/5
やはり宅建業法がイマイチだった。全体的に難易度が上がったことに加え、本試験直前の修学旅行が大きく影響したことは否めない。
業法の個数問題も、昨年の4つから今年は6つに増加した。個数問題はすべての肢が判らないと解けない。消去法が使えないのだ。
一問一答が個数問題対策になるのだが、直前期に徹底してやるべきだったと思う。ここは反省材料だった。
──努力が報われる日
平成26年12月3日、午前9時半に合否が判明する。本試験の日から約一ヶ月半、まな板の上の鯉のような心境でこの日を待った。長かった。
各予備校の合格予想点は、概ね31~34点だった。健斗は35点。マークミスだけが心配だった。
合否が判明するのは午前9時半だが、合格基準点と最年少・最高齢合格者の年齢および都道府県名だけは、12月2日の夜遅くに公表される。
すなわち12月3日の0時過ぎに週刊住宅onlineのサイトで閲覧できるのだ。
キーワードは2つ。「12歳」そして「愛知県」だ。
昨年までの各年度の最年少合格者は、6年連続で15歳か16歳だった。「12歳」かつ「愛知県」となれば、それはもう健斗しかいない。
12月2日の夜、祈りながら日付けが変わるのを待った。
そして12月3日の午前0時。私は携帯からアクセスを試みていたのだが、なかなか繋がらない。
やきもきすること約5分。ついにこの時が来た、、
繋がった。合格基準点は、
「32点!」
そして最年少合格者は、、
「12歳、男性、愛知!」
「よしっ、受かったぞぉ!!」
私は深夜だというのに、大声で叫んでいた。寝ていた妻が、
「どうしたの?」
と、眠い目をこすりながら起きてきた。
私は妻に事情を説明し、本当の合否は朝9時半に判明するから「まだ確定ではない」旨を伝え、その夜はまた寝るように促した(私は興奮して朝まで眠れなかった)。
早朝、私は妻を連れて市外の病院へ行くことになっていた。
健斗には「まだ決定ではない」と前置きしながら、一応「おめでとう」と伝えた。健斗はニヤリと微笑んだ後、意気揚々と学校へ向かった。
そして病院で、午前9時半を迎えた。
私は、受験番号を打ち込むと合否が判明するサイトにアクセスした。
サイトに健斗の受験番号を打ち込んで送信。すぐに、
「合格です」
の返信メール。病院にいることも忘れて、私は
「よっしゃ~!」
と声を上げて小さくガッツポーズ。
不思議と涙は出なかった。こうして約2年に及んだ健斗と私の「宅建合格への道」は幕を閉じたのである。
──環境の変化
宅建の合格証書は、早くもその日の夕方6時頃に自宅に届いた。
私は健斗に、
「本当によく頑張ったな」
と言って、2人で、いや家族全員(4人)で喜びを分かち合った。
私は当時「敗血症」という重い病気を患っていて、ちょうどその頃、自宅で療養中だった。
妻も「自閉症」という心の病を患っていた(妻は現在進行形)。今日の病院というのは心療内科のことである。
そういう周りの子たちとは違う特殊な環境に身をおきながら、健斗は頑張ってきた。大変だったと思う。
翌12月4日の午後1時過ぎに、一本の電話が私の携帯にかかってきた。読売新聞の記者だという。
「もしもし、健斗くんのお父さんですか?」
「はい、そうですが」
「私は読売新聞の◯◯といいます。健斗くん、宅建合格おめでとうございます。これからご自宅まで、取材にお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「それは構いませんが、、でも健斗はまだ学校から帰ってきてないですよ」
「そうですか、でも大丈夫です。健斗くんが帰るまで、ご自宅の前で待たせていただきます」
そう言って電話を切った。記者は、午後3時前には自宅前に車を停めて待機していた。
健斗は午後4時くらいに帰ってきた。私は記者を自宅に招き入れ、約2時間に及ぶ取材が行われた。
記者は健斗に、
「最年少記録おめでとうございます」
と言った。でも私は、
「8年前に12歳で受かった子がいますよね?」
と訊ねると、
「その子は12歳でも中学1年生です。ここに来る前に、機構に電話で問い合わせました。小学生で宅建に合格したのは、健斗くんが初めてです」
私も健斗も、それを聞いて驚いた。
「史上最年少合格だったんだ!」
取材が終わると記者は、
「明日の朝刊に間に合わせます。私が帰った後も、健斗くんと電話で詰めの話をしたいんで、その時また取材の続きをお願いします」
そう言って、記者は車を走らせた。
記者の言葉どおり、夜9時くらいに電話があり、今度は健斗が一人で対応していた。
細切れの電話取材が3、4回続いた後、ようやく取材が終わった。
翌朝、私は急いでコンビニへ行き、読売新聞を購入した。
そこには社会面で、
小6男子「宅建」合格、小学生初
の見出しと共に、健斗の顔写真入りで記事が書かれていた。
不思議な感覚だった。
後日、取材に来た記者から、これと同じ読売新聞が2部、コメントを添えて自宅に郵送されてきた。
その後も、中日新聞社の記者や市の広報誌の記者も自宅に訪れ、健斗が直接取材を受けた。
特に中日新聞は、大きなカラー写真入りの記事を掲載してくれ、これをきっかけに、学校や近所で健斗が「時の人」扱いになっていた。
というのも、私たちが住んでいる三河地区では、ほとんどの世帯が中日新聞をとっているからである。
今でこそ大分落ち着いてきたが、当時は、近所のコンビニに行くだけで、知らない人にまで
「おめでとうございます」
と声をかけられる始末で、
その度に私は、
「ありがとうございます」
と頭を下げていた。随分と恥ずかしかったのを覚えている。
決して順風満帆ではなかったが、頑張った甲斐があり、何とか「合格」を手にすることができた。
苦節2年。これが当時まだ小学6年生だった健斗の、宅建試験におけるサクセスストーリーであった。